銕三郎、三たびの駿府(2)
「いえ、小田原宿までお供をいたしやす」
洋次(ようじ 22歳)は言い張った。
梅沢の村はずれの押切橋の東詰である。
銕三郎は(てつさぶろう 24歳)は、むりやりこころづけをつかませ、荷をうけとった。
「勘兵衛(かんべえ 41歳)お頭にくれぐれも、よしなに---」
洋次は、何回も振り返ってはお辞儀をして引き返して行った。
【ちゅうすけ注】東海道・押切川の東側、梅沢村の茶店は、『鬼平犯科帳』文庫巻7[雨乞い庄右衛門]で、庄右衛門(しょうえもん)を殺しに梅ヶ嶋へ行く配下の定七(さだひち)と市之助(いちのすけ)を、それとしらない庄右衛門ががよもやま話でかなりのときをすごす。p21 新装版p22
「長谷川さま。その荷をわたくしがお持ちしましょう」
長山組の準小者頭・吾平が申し出たが、銕三郎は断る。
「ご親切はありがたい。しかし、この橋の向こうに、箱根荷運び雲助の仙次(せんじ 22歳)が来ています。荷はその者が持ちます」
それが、またまた、佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)与力と有田祐介(ゆうすけ 29歳)を感服させてしまった。
小田原では脇本陣の〔小清水屋〕伊兵衛方に草鞋をぬいだ。
参勤交代のすくない時期なので、本陣〔保田〕利左衛門方もすいているが、先手組の出役(しゅつやく)の身分では与力や同心は泊まれない。
銕三郎が14歳のとき、本多伯耆守正珍(まさよし 駿河・田中前藩主 4万石)の用件での旅で宿泊できたのは、父・平蔵宣雄(のぶお 51歳)の手配がきいていたからである。
【参照】2007年7月14日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (1)
2007年12月17日[与詩(よし)を迎えに] (7)
夕飯の席に、銕三郎は仙次を呼んで、酒好きの有田同心の相手をさせた。
佐山与力も銕三郎も、明朝の箱根越えをおもんぱかって、ほとんど控えたからである。
適当なころあいに切りあげた仙次へ、
「誰かに、明朝、われらよりも先に、この手紙を関所の足軽小頭・内田内記(ないき)どのと、三島宿の本陣・〔樋口〕の女主人へとどけてもらいたい」
2通の書状を託した。
翌朝---。
箱根山道は、裏庭の階段の上り下りの鍛錬の成果がはやくもあらわれたように、これまででいちばん楽に感じられた。
いや、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 36歳)の教え---上りは、なるべく踵(かかと)をつけないように---を守ったのがよかったのかも。
【参照】2008年12月25日[銕三郎、一番勝負] (5r)
銕三郎の山道のこなし方に目をとめた仙次が、うれしそうに言った。
「〔風速〕のお頭ゆずりでやすな]
畑村宿のめうが屋仙右衛門の屋敷の前を通りすぎるとき、芦ノ湯村の阿記(あき 没年=25歳)とのことがおもいだされた。
(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿記のイメージ)
【参照】2007年12月30日~[与詩(よし)を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15)
仙次も気をつかって、話しかけるのを控えている。
関所の江戸口の門番一人が、仙次の姿を認めるや、番所へ走った。
副役(そえやく)・伊谷彦右衛門と、足軽小頭・打田内記が出迎えに、いそいで出てきた。
佐山与力が恐縮してあいさつを述べた。
銕三郎は、用意していた舟橋屋織江の羊羹を小田原藩の2人へ渡すと、一行は番屋で茶菓子をふるまわれた。
あと、箱根宿の脇本陣〔川田〕角右衛門方で、昼食まで馳走になった。
相伴していた打田小頭が、銕三郎に訊く。
「権七めは、達者にしておりましょうか?」
「はい」
「長谷川太郎兵衛(たろうべい 60歳)さま---あ、長谷川どのの伯父ごさまでございましたな---あのとき、火盗改メのお頭であった長谷川さまのお手くばりで、権七は箱根へ戻ってもよくなりましたのに、江戸の水が性(しょう)にあいましたのか、あしかけ5年、向こうへ居座ったまま---」
嘆息する打田内記へ
「打田さま。こんどの駿府行きは、権七どのかかわりで---」
「そのように、ご書状でうかがいました」
横から、有田同心が口をはさむ。
「権七かかわりと申しますと?」
「〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)の人相をしっているのが、いま、話にでました権七どのと、拙でして---」
銕三郎も内田小頭も、権七が〔荒神〕の助太郎の関所抜けに手を貸したことは、あえて言わなかった。
「それは奇特---」
「権七どのが店から手がぬけられれば、いっしょにとおもって声をかけてみましたが、2月ならば---と断られまして---」
【参照】2008年3月2日[〔荒神〕の助太郎] (8) (10)
銕三郎の口ぶりから事情を察した打田小頭が、話題を変えてくれたので、権七の関所ぬけのことにまでは話題がおよばないですんだ。
三島宿でも、脇本陣・〔世古〕郷四郎方へ、向かいの本陣・〔樋口屋〕伝左衛門方から、でっぷりと貫禄のついた女将・お芙沙(ふさ 35歳)が、番頭に小さな角樽(つのだる)をもたせてやってき、佐田与力たちを、またも驚かせた。
お芙沙は、
「長谷川さまだけでも、うちへお泊まりねがいたいのですが、お役目なら、いたし方がございません。せめて、与詩(よし 6歳=当時)ちゃんといっしょ寝した、うちの多恵(たえ 7歳)にもお顔をお見せくださって、与詩ちゃんのお話でも聞かせてやってくださいませ」
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2008年1月20日[与詩(よし)を迎えに] (30)
芙沙の言葉に、佐山与力がすすめる。
「長谷川どの。女将の望みをかなえてさしあげなされ」
番頭を先に帰しておいた芙沙は、表の東海道へ出ると、向かいが自分の家なのに、左手の暗がりへ銕三郎を引きこみ、
「しばらく、歩きましょう」
手をつないだまま、暗い道を山手のほうへ導く。
本陣の女主人・お芙沙としては、宵の口とはいえ、亭主や宿泊客でもない銕三郎と歩いているところが土地の者の目にふれると、噂になりかねない。
ぬかりなく、用意をしていた頭巾をで、顔を隠した。
「阿記さまがお亡くなりになったこと、風の頼りにお聞きしました。ご愁傷さまでございました」
「運命でしょう」
「お子さまがおありだったとか---」
「拙の母方の田舎へ、養女にやりました」
「わたしも、銕三(てっさ)さまのお子がほしかった」
意識したようにに10年前の、高まったときの呼び名を口にしている。
「その節は、ありがとうございました。夢ごこちでした」
「思い出してくださっているんですね」
「一生、わすれないでしょう」
「うれしい」
お芙沙が、躰をあずけてきた。
おもった以上に豊満なのが、厚く着こんだ着物の上からでも分かった。
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